
たくさん歩いた日は「夜食にドーナッツ」も可とする。
揚げもの、焼きもの、炒めもの…と格言のとおり茶色い食べものは総じて美味い。
なかでもこの穴のあいた甘くてフカフカした食べものには目がない。
たくさん歩いた日は「夜食にドーナッツ」も可とする。
揚げもの、焼きもの、炒めもの…と格言のとおり茶色い食べものは総じて美味い。
なかでもこの穴のあいた甘くてフカフカした食べものには目がない。
- 井荻村 (杉並区清水) へ引越して来た当時、川南の善福寺川は綺麗に澄んだ流れであった。
清冽な感じであった。知らない者は川の水を飲むかもしれなかった。
川堤は平らで田圃のなかに続く平凡な草堤だが、いつもの水量が川幅いっぱいで、
昆布のように長っぽそい水草が流れにそよぎ、金魚藻に似た藻草や、河骨 (こうほね) のような丸葉の水草なども生えていた -
井伏鱒二 『善福寺川』
- 庭の日かげはまだ霜柱に閉じられて、
隣の栗の樹の梢 (こずえ) には灰色の寒い風が揺れているのに
南の沖のかなたからはもう桃色の雲がこっそり頭を出してのぞいているのであった -
寺田寅彦 『春六題』
小さい頃は桜と紅葉くらいにしか関心が持てなかったはずなのに。
煮詰まってくると何やら無性に街歩きがしたくなってくる。
でもなぜ街を歩くのかと考えると、自分でも良くわからない。
別に川とか山に行けばいいような気がするし、なんなら近所をランニングするだけだって良いような気もする。
なんてことを考えながらブラブラしていると豆大福、という文字がゆらゆら揺れているのが目に入る (もちろん立ち寄って、買って帰る) 。
道の反対側には旨そうなハムやチーズを置いたデリカテッセンが見える (もちろん買って帰る) 。
お店には、ちゃんと人の気配がある。
別に行きつけの店でも知り合いがやってる店でもない。
だけどそこには最低限の人と人との触れ合いがあって、僕はそういうのものを外の世界に求めているのかもしれない。
- 進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれた事がない。
徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。
” どこまで伴 (つ) れて行かれるか ” 分らない。実に恐ろしい -
夏目漱石 『行人』
握り鮨が大好物なので海鮮丼はそれ程、と言いたいところだけど
雲丹 (うに) のヤツは定期的に食べたくなる。
出汁をかけたお茶漬けでサササ、も大好き。
- 開いた窓から夜が流れこんで来て、
柔らかく私を抱き、私を友だちにし、兄弟にする。
私たちは共に同じ郷愁に病んでいる。
私たちはほのかな思いに満ちた夢を送り出し、
ささやきながら、私たちの父の家で暮した
昔を語り合う。-
ヘルマン・ヘッセ 『夜』
ぶっかけうどん (←定義は良く知らない) には目がない。
頼んだらすぐに出てきて、それでいてとても美味しい。
ちくわ天も鶏天も毎日食べたいくらい。
でも、食べ過ぎちゃいけない。
- 美が絶対的で不変的なものであったことは一度だってないが、
それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。
これは、物理的な美しさ (男性、女性、景色などの美しさ) にかぎったことではなく、キリストや、聖人や、イデアも然りだ -
ウンベルト・エーコ / 美しさ