朝のルーティン。
目を覚ますと、ベッドのうえで軽く身体を伸ばす。リビングのカーテンを開け放ち、空気を入れ替えたらコップ一杯の水を飲む。パーカーを羽織ったら、15分程あたりを散策し、新聞受けに届いた朝刊を手に取って書斎に戻る。
熱めの湯で淹れたコーヒーを飲みながら新聞を読み、面白い記事を見つければ妻と共有し、時には突っ込みを入れる。
予定の入っていない日には、息子とコンビニまで散歩し、いつもは他紙を買って帰る。
記者によって書きぶりが違うのは当然だが、同じ事件・事象を扱うにしても社によって論調が違う。モノゴトに対する姿勢・見方の違い、記事を書く人(編集長、新聞社そのもの)のバックグラウンド、そういったものが日本語の文字(考えてみれば日本語自体、外来語を含めた多様な表現方法だが)から浮かび上がってくる。
コンビニに着くと、息子に新聞とEdyを渡し、シャリーンして帰る。
彼が大人になる頃、この無駄にかさ張るガサガサした紙のメディアはまだ生き残っているだろうか。