Lectio

鶯は鳴くかね

-「ええ毎日のように鳴きます。此処 (ここら) は夏も鳴きます」

「聞きたいな。ちっとも聞えないと猶 (なお) 聞きたい」

「生憎今日は-先刻の雨で何処へ逃げました」

折りから、竈 (へっつい) のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯 (さつ) と風を起して一尺あまり吹き出す-

夏目漱石 『草枕』

絵画を眺めてるみたいだなといつも思う。いや、音もたしかに聞こえてくる。

漱石の文章を読んでいると、なるほど漢字というのはこのように置くものかといつも感心してしまう。

LivingSafari

春の散歩道

「木」というものほど太古から人類の創作意欲を湧かせたものは他にないのではないかとも思う。

あちらの親子連れが3人で組み上げたのか、他に (幾分凝り性の) 制作者がいたのかはわからないけれど、嬉しそうな子どもたちを見てなんだかこちらも幸せな気分になってしまった。

Lectio

こうして好みの変って来つつある私だが、やっぱり小説の細部の魅力への信仰は捨てかねる。

-バルザックが、小説は荘厳な虚偽であるから細部の真実に支えられなければならぬ、と云ったのは、私の言う意味とは少しちがっていて、

私のは、登場人物が、急に駆け出すときにどんな駆け方をしたか、とか、泣きそうになって涙を抑えたときにどんな表情になったか、とか、

彼女の微笑に際してどのへんまで歯が露われたか、とか、ふりむいたときに衣服の背の皺 (しわ) がどんな風になったか、とか、

そういう些末な描写に対する不断の関心と飽かぬ興味が、読者としての私の中にも牢固として根を張っているからである-

三島由紀夫 / 日記 『昭和33年4月19日(土)』