
昔から『プランクトン』という生き物のような、そうじゃないような、不思議な響きの言葉に惹かれていて
用事があって訪れた図書館で偶然見つけた図鑑ではこんな素敵な曼荼羅 (マンダラ) と出会ってしまった。
海のなかの世界は大きく、そして深い。
昔から『プランクトン』という生き物のような、そうじゃないような、不思議な響きの言葉に惹かれていて
用事があって訪れた図書館で偶然見つけた図鑑ではこんな素敵な曼荼羅 (マンダラ) と出会ってしまった。
海のなかの世界は大きく、そして深い。
- 芸術家は、聴衆に向かいあうときの自分の役割の大きさを重荷に感じ、傷つきやすくなっている。
この職業で成功したり、ある程度有名になったからといって、探究すべきことはもうないなどと思ってしまうようなら、それは誤りである。
人はすべてをコントロールしきれるものではなく、そのことはステージの上でも同様だ -
ジャン・ファシナ 『若いピアニストへの手紙』
小さい頃からおやつを自分で選ぶことに無上の喜びを感じていた。
僕の通った小学校の裏にも駄菓子屋があったから、お小遣いの残りの100円玉を握りしめて駄菓子屋のおばあちゃんと挨拶を交わし、
一個10円とか20円のお菓子をいくつか買ってはお店の脇のベンチで食べた。
自転車で隣町の小学校の裏の駄菓子屋を覗いたときなんかは「俺らの駄菓子屋の方が色んなのが並んでるぜ」なんて密かに自慢に思ったりした。
そんな僕の (ではないけど) 駄菓子屋も隣町の駄菓子屋も既に無く、心踊る懐かしのお菓子たちはスーパーやコンビニの一角でおじさん達の目にとまるのを静かに待っている。
なんて、くだらないことを考えながら『おかしのまちおか』で大人買いしたチョコバットを妻に隠れてモソモソ食べている。
ちょっと調べものがあり、図書館へ。
途中、クリムトの画集が目に入ったので手に取る。こんな絵も描いていたのだっけ、とパラパラ、パラパラ。
お、ゴーギャンの画集もあるじゃないか、パラパラ。
待て待てあちらにはアンリ・ルソーの画集…。
図書館でのセレンディピティは人生の愉しみのひとつとあらためて感心しつつ、
司書の方々の感染対策の負担を増やさないよう、貸出処理を済ませて足早に去る。
コロナで世界が一変し、ウィルスとの戦いはまだまだこれからという状況ではあるけれど
テイクアウトに対応してもらえるお店が増えたおかげで色々な食べものとの出会いがあった。
以前なら「やっぱりお店で食べないと」と思っていたところでも気軽に持ち帰りを注文できるように。
『オムそば』なるものは、少し冷めても、温め直しても美味しい。
福は自ら呼び込むもの、という気構えは常に持っていたい。なんて家族と買い出しに出た際にふと。
小さい頃は、お正月から春先くらいまでは毎日でもいいよってくらいお雑煮が好きで
実際、母に汁を沢山つくってもらっておいて、お腹が空くと焼いた餅を2つ3つ放り込んでモグモグズルズルと食べていた。
もちろんオーソドックスな磯辺焼きも好きだし、甘ーいお汁粉や、おろしでさっぱり食べるのも好きだけど、
ここ数年はきな粉もちにハマっている。
きな粉と砂糖の比率をどうするか、という加減が案外難しく、そして面白い。
元旦にお日さまを拝めるだけで
なんだか良い年になる予感。
皆さまにとっても、いい年になりますように。
暖かい家のなかで鍋をつついて、酒を呑んで、なにやらガヤガヤとしたテレビ番組を観て、そろそろ今年が終わろうとしている。
12月31日、外ではまだ雪がしんしんと降っている。
- 父の死という事件と、悲しみという感情とが、別々の、孤立した、お互いに結びつかず犯し合わぬもののように思われる。
一寸した時間のずれ、一寸した遅れが、いつも私の感情と事件とをばらばらな、おそらくそれが本質的なばらばらな状態に引き戻してしまう。
私の悲しみといものがあったら、それはおそらく、何の事件にも動機にもかかわりなく、突発的に、理由もなく私を襲うであろう。-
三島由紀夫 『金閣寺』