
コロナ後は何か用事がなければなかなか電車にも乗らなくなってしまった。
そのかわり、すべてが新鮮というか、世の中の景色が違って見えたりもする。
変わらずにずっとあるものもあるのかもしれないけど。
コロナ後は何か用事がなければなかなか電車にも乗らなくなってしまった。
そのかわり、すべてが新鮮というか、世の中の景色が違って見えたりもする。
変わらずにずっとあるものもあるのかもしれないけど。
もちろん背表紙だって大事だけれども、
やっぱり絵本の世界の入り口は『表紙』だと思っている。
手に取った時の子ども達の顔を見るのが親としての愉しみでもある。
妻に少し時間をもらって、
図書館で好きなだけ本を読んで
目に入った喫茶店に入り、何も考えずに黙々と珈琲をのむ。
これ以上の休暇はないのではないかと思う。
人の淹れたコーヒーがいちばんおいしいって誰が言ってたんだっけな。
ふるさと納税でイチゴを頂いた。
シャクシャクとした食感を皆で愉しんで、残りは妻がジャムにしてくれた。
それをグラスに少しとって、上から牛乳をたっぷりと。
朝から苺ミルクとは、なんて思いながらゴクゴクと飲み干してしまった。
- どれ、帰る時刻だ。既に消え果てた道を辿って、私は村へ戻る。
村の名はその村だけが知っている。
つつましい百姓たちが、そこに住んでいて、誰一人、彼らを訪れて来ることはない-この私よりほかには。-
ルナール 『猟期終る』
- 西洋哲学の個人主義的倫理に代わるものとしての儒教倫理をどう特徴づけるかは、儒教研究者のあいだでも議論の的になっている。
多くの研究者が、儒教倫理はある種の美徳倫理学であり、アリストテレスのそれと似たものだと見なしている -
マイケル・サンデル 『中国哲学から学ぶ』
こども達にとっては、混ぜたり捏ねたり焼いたりっていう工程は全てが愉しい時間なんだろうな。
子どもの頃キッチンに立たせてもらえなかった僕としては、なんだか羨ましくもある。
- 江戸時代の日本人で中国を見た人はまれだったろう。
でありながら、当時の日本人の言語生活のなかで、中国語が、漢文・漢語のかたちをとって同居していた。
日本における外国事情は、いまもおなじである -
司馬遼太郎 『アメリカ素描』
前日に街へ買い出しに出掛けた際、専門店こ冷凍クロワッサンが目にとまる。
そうだコレ前から食べてみたかったやつだよねと息子と目を合わせながら買い物籠にドサドサと入れる。
あら、たまには良いわねと笑顔を見せる妻。
なんとなくホクホクとした気分で気持ち早めに寝て、朝起きるとキッチンからクロワッサンの焼ける香ばしいにおいが届く。
スクランブルエッグと妻が買っておいてくれた旬のイチゴを添えて、皆でふっくらと焼けたクロワッサンにかぶりつく。
ここにおいしい紅茶かとびきりフレッシュなジュースでもあればもう完璧なのかも?いや、やっぱりこんな感じでいいんだろうななんて思ったりして。
そろそろ寒い季節はおしまい。
と思いつつ、少しでも日中の体温をなんとか維持して快適な毎日をと考えると
やっぱり書斎にもラグが必要かもしれない。