
- なぜかというと、歴史で書いてあること以外にものすごいたくさんのことがある。
すごいたくさんのことがあって、その残りである、その本当の残り物である神殿、いろんな神殿を訪ねておられるわけですが、
その神殿に座っているだけで、もうすごいたくさんのものがくるけれど、それは歴史には全然書いてないのです -
河合隼雄 『読むこと・聴くこと・生きること』
- なぜかというと、歴史で書いてあること以外にものすごいたくさんのことがある。
すごいたくさんのことがあって、その残りである、その本当の残り物である神殿、いろんな神殿を訪ねておられるわけですが、
その神殿に座っているだけで、もうすごいたくさんのものがくるけれど、それは歴史には全然書いてないのです -
河合隼雄 『読むこと・聴くこと・生きること』
- 人間は、古代から「暮らし」のなかにいる。
森青蛙が樹上に白い泡状の卵塊をつくるように、シベリアのエヴェンキというアルタイ語族の一派が、河畔で白樺の樹の家をつくり、鮭をとり、鮭を食べ、鮭の皮の靴をはくように、
私どもはあたえられた自然条件のなかで暮らしの文化をつくり、踏襲し、ときに歴史的条件によって変化させてきた。
人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎での思案だけではどうにもならない。
地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出逢うには、そこにかつて居た-あるいは現在もいる-山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。-
司馬遼太郎 / 私にとっての旅
- 以来、人類は大半の時間を、あちこち動き回ったり、狩りと採集を行ったり、遊牧民として生活したりしてきた。
村を作って定住するという考えは新たな発明だった。
それを思いついたのは一万三千年前のことであり、それ以降、私たちは放浪生活をやめ、穀物を栽培するようになった。
だから今の私たちが時々、移動不足を幻肢痛のように感じて、遊牧生活に憧れるのも不思議ではない。
遊牧生活の記憶は旅行癖にだけ見られるわけでもない。
私たちは動物の背に乗って移動すると、心が落ち着き安心するのだ-
ペール・アンデション / 「ここではない、どこか」という憧れ
遥かな昔の自分の祖先が遊牧的な民であったかどうかは別として、人類としての共通の記憶みたいなものがあるとすれば
たしかに我々は、気の遠くなるような長い時間をかけて、この広大な世界を他の動物たちと共に彷徨い歩いてきたんだなとあらためて思う。
いつかどこかで野生のウマやゾウに出会うことがあれば、そんなことをまた思い出すかもしれない。
- アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。
町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。
春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあなを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。
丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆けぬけた。 -
レイチェル・カーソン / 沈黙の春 – 明日のための寓話
単に年齢的なものなのか、コロナ禍を経験した人類の一員としての危機意識がそうさせるのかはわからないけれど
我々がこれから失おうとしているものがどういうものなのか、ということについて時々考えるようになった。
とうの昔に失って、もはや取り戻すことができないものについても。
- それから ふくろうは
まくらに あたまを つけて
めを とじました。
おつきさまの ひかりは
まどから ずっと
さしこんで いました。
ふくろうは ちっとも
かなしくなんか ないのでした。-
アーノルド・ローベル 『おつきさま』
- 太陽はすでに空高く登っています。
昼めしまでに、緑の菜っ葉のスープを作らなければなりません。
さて、緑の菜っ葉とはなんでしょうか。緑というからには緑色なのでしょう。
あたりを見まわすと、緑色のものはおかみさんの新しいセーターしかありませんでしたので、
おやじさんはそれを細かく切り刻んで、鍋に入れました-
アンナ・クララ・ティードホルム 『仕事を取りかえたおやじさんとおかみさん』
-マティスは意外にも画家として比較的遅咲きだったものの、
生涯にわたって実にさまざまなスタイルの絵や彫刻や素描などを数多く残しました。
晩年身体が思うように動かなくなっていたにもかかわらず、
自身の中から湧き上がってくるインスピレーションを形にするために、マティスは常に前へ前へと突き進んでいったわけですが、
アトリエで一人、礼拝堂の壁面のための大きなドローイングに集中する姿から彼の制作にかける意欲が見て取れるはずです-
河内タカ / アートの入り口
画家であった経験は自分にはないけれど、何かを描こうとするとき、目の前にあるものではなく自分の内面にある何かに衝き動かされている、という感覚はなんとなくわかる。
絵画や彫刻だけじゃなくて、あらゆる創造的行為というのは目の前にある物質を使って自身の内側にあるものを表現していく作業なんじゃないかと何となく思っている。
社会の掟に、進んで身をまかせ、自らを縛する、というところに、一種の快い、引緊った安堵がある。
タクシードを着て凛々しい快感を覚えぬ男があるだろうか -
伊丹十三 『正装の快感』
- これは、君達の図書室だよ。ここにある本は、誰でも、どれでも読んでいい。
『何年生だから、どの本』とか、そういう事は考えることはないし、いつでも、好きなときに、図書室に入ってかまわない。
借りたい本があったら、家に持って帰って読んでいい。そのかわり、読んだら、返しとけよ。
家にあるので、みんなに読ませたい本があったら持って来てくれるのも、先生は、うれしいよ。
とにかく、本をたくさん、読んでください -
黒柳徹子 『窓ぎわのトットちゃん』
子ども達と図書館へ行くと、このくらいの年頃だとコレみたいな固定観念から
つい「今読むべき本」みたいなものを薦めたくなってしまうけれど、
当の本人たちが欲してるものは全然そんなものじゃなくて、僕なんかが選ぶよりもよっぽど面白そうな本を自分で見つけてくる。
そういう意味でも「図書館」という子ども達にとっての世界の入口は、未来のこの国にもちゃんと在って欲しいなと心から思う。
- そのころはまだ、イタリア語で歌われている歌詞の意味が分からなかったため、
カルーゾが復讐に燃えているのか、新大陸の発見に歓喜しているのか、皆目見当がつきませんでした。
でも、そんなことは少しも気にならなかったのです。
カルーゾの声そのものが心に深く染み通るものでしたので、歌詞を頼りに音楽を楽しむという気になれなかったからです。
わたしが音楽から聴きとったのは、演奏者の魂が自分の魂に直接呼びかける声だったのです -
ドナルド・キーン / オペラとの出会い