
最近のコンビニスイーツだって味はなかなかのものだけれど
やっぱりもらって嬉しいのは老舗のカステラとかになるのかもしれない。
頂きものを手提げ袋ごと妻に渡し、
珈琲にしようか、紅茶にしようかとアレコレ考えるだけで愉しい。
最近のコンビニスイーツだって味はなかなかのものだけれど
やっぱりもらって嬉しいのは老舗のカステラとかになるのかもしれない。
頂きものを手提げ袋ごと妻に渡し、
珈琲にしようか、紅茶にしようかとアレコレ考えるだけで愉しい。
僕たちは、眠っている時間以外は何かしらの目的を持って行動している。
「何もしていない時間」というのがどこかにないかな、と考えてみると僕にとってのそれは珈琲を飲んでいるときかもしれないと思った。
( 煙草を吸う人はタバコを咥えている時間がそれにあたるかもしれない )
砂糖もミルクもいらないし、淹れてもらったコーヒーを、小さい子どものように、ただボーッとして飲むだけ。
椅子に座って久方ぶりにのんびりとした時間を過ごすと、ごちそうさまと言って静かに店を出る。
基本的にイチゴのショートケーキを超えるスイーツというのは存在しないと思っているけれど
“ロールケーキ” というやつも割と好きだ。
フルーツを入れるのか入れないのか、とか
生クリームとスポンジの比率はどうするとか
シンプルなデザインゆえに、けっこう奥が深い。
夜更けに食べたくなるのはクリームたっぷりのやつだけど、3時のおやつの時には割にシンプルなやつでいいな、とか
今まで真剣に考えたことはなかったけれど、お酒の席であればロールケーキだけで1時間くらいは語れるかもしれない。
いつの頃からか陶器とか磁器とかのツルンとした感じに惹かれるようになった。
眺めていると、その滑らかな表面に触れてみたいという衝動に駆られる。
そうした欲求の全てが叶えられるものではないということは勿論わかっているけれど、そういう欲が身体のどこからか湧いてくるということ自体、何となく嬉しいような気もしてくる。
古い建物を訪れると、日々の過ごし方、暮らし方について先人の知恵を借りることができるような気がしてくる。
クーラーも扇風機もランプも無い時代、人々はその日その日の暑さ寒さや光を感じ、小さな部屋に設られた花や絵を眺めながら季節を味わったのだろうか。
でも考えてみれば、どの時代のどの階層の人たちも本当は目の前のことに精一杯で、
こうしてぼんやりと何かを眺めて暮らすなんてことはできなかったのかもしれない。
なんてことを竹の描かれた襖絵を眺めながら。
大きな杉玉を見掛けると、つい覗きたくなってしまう。
酒蔵というのは自分にとっては古き良き日本の美を凝縮したような存在に思えるし、
最近はカフェやレストランが併設されているところもあって、そういう酒蔵さんには一見客でも受け入れてくれる柔らかな雰囲気もある。
流通が発達したおかげで美味しいものが気軽に手に入る時代にはなったけれど、
この土地でこの人たちが丹精込めてつくったものなのかとか密かに関心しながら買って帰るお酒は、
いつもとは少し違った味がするんじゃないか、なんて思ったりして。
長い間リビング用のティッシュケースを探した末に、
「そもそも木やプラスチックの箱に拘る必要もないのだ」ということに漸く気付いた。
以前フォルクスワーゲンのピックアップトラックのミニカーを買ったお店を再訪してみると、そこで運命の出会いが。
息子と父は言葉も交わさずにレジへ走ることになった。
それにしても、ヨーロッパ車のデザインが我々のような異文化で育った民族をも魅了するっていうこと自体なかなか凄いことだよな、なんてあらためて感心してしまった。
美術館に何を望んで行くのかと言えば、「なにか新しいこと」だろうか。
いや、どうも違うなと思う。
自分と別にご縁があったわけでもない作家の絵を観ていても時々、むかし自分にもこんなことあったよなって感覚におそわれることがある。
自分のなかの曖昧な記憶とか、もうだいぶ昔に忘れてしまった大事な何かを思い出しに行っているのかもしれないなと思ったり。
気持ちよく晴れた日曜の朝には美術館を歩きたい。
小ぶりな美術館の場合、それほど脚が疲れるわけでもないのだけれど
中庭に抜ける扉を見つけると、つい吸い込まれるように外へ出て、木製のチェアに腰をおろす。
考えてみればここは美術館の一部であって我が家ではないし、年に何度も通うわけでもないのに何故こうも落ち着くのだろうと、いつも感心してしまう。
小さい頃は桜と紅葉くらいにしか関心が持てなかったはずなのに。