Living

できること、できないこと

下の子は所謂「ずり這い」ができるようになったらしく、嬉しそうな顔でころころずりずりと部屋中をいったりきたりしている。

なんとも柔らかで、しなやかで、愛らしい生きものだなと思う。

上の子はそれをみて真似をしているが、下の子のそれとは違う。彼だって少し前までは似たような柔らかさを持った赤ん坊だったのになと不思議に思う。

僕たちは色々なことを覚えては、忘れていく

Living

モノの値段

妻か母にプレゼントするとき以外に花の値段というものをあまり意識する機会がなかったのだけど

あらためて見ると、花ってこんなに安価で手に入るんだなと驚いた。

生産者が丹精込めて育てたリーガーベコニアが一鉢350円とかで取引されていても、これに関わる人々の生活がちゃんと成り立つものなんだなと。

(もちろん育ててる花は一種類じゃなかったり、生産量が多いところもあるだろうけど、果たして生産者の取り分は?物流会社や花屋さんの取り分は?)

業務用で儲けが出るんだよ、とか、あるいは一般消費者向けの方が実は利幅は大きいんだよとかあるのかな。

いずれにしても、このところ花屋を覗いてる人が増えた気がして、なぜかちょっと嬉しい。

Gastronomie

中濃ソース

母に持たせてもらったコロッケを食べる。

こういうときに使うソースはウスターがいいのか、とんかつソースにしたらいいのか、はたまた中濃ソースにしたら良いのか、今までちゃんと考えたことがなかった。

ブルドックソースには昔から本当にお世話になってる。

Living

湯めぐり気分

いくら晴れていても、風の冷たい日が続くと体力と気力を奪われてしまう。

免疫力を維持するためにはとにかく体温を高く保つこと、という脳からの指令に応えるため、久しぶりに入浴剤を投入してみた。

「本品は温泉の湯を再現したものではありません」とは書いてあるものの、

効能 (冷え症、肩こり、腰痛etc) も色々あるみたいだし、『にごり湯』ってなんとなく気分もあがる。

昔は入浴剤の香りがあまり好きじゃなかったのに、今はとても癒される。

自分が変わったのかな、いや、やっぱりこういうところにも長年の企業努力というのがあるのかもしれない。

SafariStyle

色探し

自然のなかを歩くと、結局のところ自分がどういう色に惹かれるのかというのがなんとなくわかる。

自分のなかの「色の呼び方」の語彙をもう少し増やしてもいいかも、なんて思った。

IdeaSafari

春分の日に

別になんてことない風景でも

空があおくて

沿道に日の丸がはためいているだけで

いかにもこの国の “祝日” って感じがして好き。

そうだ、今日は春分なのだ。

Lectio

いまはもうどこにも存在しない街と人

-私が二十代半ばでユーラシアへの長い旅に出たとき、まだヴェトナム戦争は終結していなかった。

サイゴンは、依然として大いなる混沌の中で深い退廃を抱え込んでいた。

熟れ、爛れ、汚れ、乱れ、しかし同時に、輝き、弾け、溢れ、満たしてくれる街としてのサイゴンは存在していたのだ。

多少の危険を覚悟すれば、通過地点のバンコクからサイゴンへ抜けていく方法がないわけではなかった。

しかし、そのときの私には、内部にいまほどの痛切さでサイゴンが棲んでいなかったのだ。

気がついたときには、サイゴンはこの世から消え去り、ホーチミン市と名前を変えていた-

沢木耕太郎 『水と緑と光と』

いま、この瞬間にも何かが失われていっている。

遠い異国の、遠い昔に地球上から消えてしまったアノ街を訪れてみたかったなという憧憬の念みたいなものはもちろん僕にもあるけれど

それよりはむしろ、いまは亡き祖父や祖母が生きた時代のこの街の空気や景色を一度見てみたいなと、時折り思ったりもする。

半世紀。

ごく最近のような、遥か大昔のような。

IdeaLiving

ロストワールド

今が仮に「何かが失われた時代」なんだとしたら、消えてしまったものはなんだろう。

それは “ひたむきさ” かなとボンヤリ思った。

自分がかつて本気でスポーツに取り組んでいたこともあって、全盛期を過ぎて、周囲から引退の2文字を突きつけられてもなおプロとしてのキャリアを捨てないベテラン達のプレーを観ると、胸が熱くなる。

彼らの何が僕を揺さぶるんだろう。

それはやっぱり彼らの直向きさとか、情熱とか、最後の薄皮いち枚くらいにかける執念とか、そういうものかなと思う。

たしかに便利でライトな世の中になったし、もうそんな時代じゃないよと言う人もいるだろうけど、結局のところ、僕が好きなのはそういうものなんだろうと思ったりした。

IdeaLectio

わたしは幼いときからこれらの本のあいだですごし、物語を鵜呑みにしていました。

-もし、祖父の世代の日本が民族主義の目から見た日本だとすれば、

母が漸次受け入れてきたものは、現代生活と現代化された日本を代表するものであり、当時のわたしがあこがれたものは、文学芸術のなかの「現代的な」日本であったと言えます。

ならば、わたしの子どもたちや学生にとっては、今日の日本、とりわけ東京という都市は、また別の様相を意味することになるでしょう-

四方田犬彦・也斯(イェース) 『往復書簡 いつも香港を見つめて』

世界はこの世にたった一つしか存在しない、とは僕は思っていない。

人の数だけそれぞれに世界があると思っていて、たとえば小説や映画、あるいは自分自身の思い出や家族から聞いた物語みたいなものがそれらを彩っているんだろう。

それが良いものであれ悪いものであれ、僕たちが僕たち自身で認識するセカイというのはそうやってできていくんだと思っている。