
- しかし、みな 目ざすところは同じだ。
馬で行くことも、車で行くことも、
ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は
自分ひとりで歩かねばならない -
ヘルマン・ヘッセ 『独り』
- しかし、みな 目ざすところは同じだ。
馬で行くことも、車で行くことも、
ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は
自分ひとりで歩かねばならない -
ヘルマン・ヘッセ 『独り』
- 私はほほえみながら弓をあちこちに動かし、
私の血のにじむ命をかなでる。
そしてだれも現さなかったものを現わす-
だが、いくらひいても、私はもう楽しくなれない。-
ヘルマン・ヘッセ 『ヴァイオリンひき』
「 一日のいとなみに疲れて、
私の切なる願いは
疲れた子どものように、
星月夜をしみじみと抱きしめる。」
ヘルマン・ヘッセ 『寝ようとして』
- 開いた窓から夜が流れこんで来て、
柔らかく私を抱き、私を友だちにし、兄弟にする。
私たちは共に同じ郷愁に病んでいる。
私たちはほのかな思いに満ちた夢を送り出し、
ささやきながら、私たちの父の家で暮した
昔を語り合う。-
ヘルマン・ヘッセ / 夜
- 夜、海が私をゆすり、
色あせた星の輝きが、
広い波の上にうつる時、
私は自分をすっかり、
一切の行いと愛とから引離し、
じっとたたずんで、ただひとり
ひとりぼっち海にゆられて僅かに呼吸する -
ヘルマン・ヘッセ / 『アジアの旅から 』 一、夜沖あいで -マレー群島-
- 胸の奥で、一生のかぐわしいうら若い日の
思い出がよみがえって
花の目の中から私を明るく見つめる。
私は花をつみに行こうと思ったが、
今はすべての花を咲くにまかせて、
家に帰って行く、老いた人として -
ヘルマン・ヘッセ 『最初の花』
- 人生の砂漠を私は焼けながらさまよう、
そして自分の重荷の下でうめく。
だが、どこかに、ほとんど忘れられて
花咲く涼しい日かげの庭のあるのを私は知っている-
ヘルマン・ヘッセ 『どこかに』
-どこかで夜、花火があげられるときほど美しいものを、ぼくは知らない。
青や緑の光の玉ができて、暗やみにのぼってゆく。
ちょうどいちばん美しくなったとき、小さい弓形を描いて消える。
それをながめていると、喜びを、そして同時にまた、すぐに消えてしまうのだという不安をいだく。
それが結びついているから、花火がもっと長くつづく場合よりずっと美しいのだ。
そうじゃないかい?-
ヘルマン・ヘッセ 『クヌルプ』
小さい頃の僕は、毎年夏の花火を楽しみにしている子どもだった。
ある年の夏祭りの花火は僕にとってこの世にこれ以上美しいものがあるだろうかというくらい綺麗で、
家までの帰り道を誰とも口を聞かず、布団に入っても全然眠れなかったことがある。
その次の年、僕はまた同じ場所へ行って、同じように花火を観たのに、もうそれまでのような感動は失われてしまっていて、花火というよりもなんだか自分自身にがっかりしてしまったのを覚えている。
あれは単に僕にとっての幼年期の終わりみたいなものだったのかもしれないけれど、いつかもう一度だけでも、あの時のような気持ちで花火を眺められたらななんて密かに思っている。
-何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。
そういうことはめいめい自分で考え出すほかはないんだ。本から学ぶことはできない。
これが僕の意見だ。聖書は古い。昔の人は、今日の人がよく知っていることをいろいろとまだ知らなかったのだ。
だが、だからこそ聖書には美しいこと、りっぱなことがたくさん書いてある。ほんとのことだってじつにたくさんある。
ところどころはまるで美しい絵本のように思えたよ。ルツという娘が畑を行き、落ち穂を集めるところなんか、すてきだよ。すばらしい夏が感じられる-
ヘルマン・ヘッセ / クヌルプ 『早春』
-あわただしい生活の
過ぎこし方と行く手とを恥じ、おそれつつ、
家を建てて、それを飾り、壁を塗り、たんすを満たし、
友達と宴 (うたげ) を祝い、そして
愛らしい花を植える、門の前に。-
ヘルマン・ヘッセ 『新しい家に入るに際し』