Lectio

私の過去を訐 (あば) いても

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。

しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。

私は死ぬ前にたった一人で好いから、他 (ひと) を信用して死にたいと思っている。

あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

夏目漱石 『こころ』

Lectio

御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました

-菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹 (ようかん) が並んでいる。

余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、

どう見ても一個の美術品だ。

ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蠟石の雑種の様で、甚だ見て心持ちがいい。

のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる-

夏目漱石 『草枕』

以前、仕事の関係で美術品蒐集家の方を訪ねたときのことを思い出した。

その方は「手で触れてみなければわからないこともある」という考えをお持ちで、実際にコレクションの一部に触れさせてもらう機会を頂いた。

それ以来、美術館でツルリとした磁器などを眺めては「あぁ一度でいいから触れてみたい」なんて思ってしまう。

Lectio

鶯は鳴くかね

-「ええ毎日のように鳴きます。此処 (ここら) は夏も鳴きます」

「聞きたいな。ちっとも聞えないと猶 (なお) 聞きたい」

「生憎今日は-先刻の雨で何処へ逃げました」

折りから、竈 (へっつい) のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯 (さつ) と風を起して一尺あまり吹き出す-

夏目漱石 『草枕』

絵画を眺めてるみたいだなといつも思う。いや、音もたしかに聞こえてくる。

漱石の文章を読んでいると、なるほど漢字というのはこのように置くものかといつも感心してしまう。

Lectio

道徳に反対した文芸は枯れてしまわなければならない

-我々人間としてこの世に存在する以上どう藻掻 (もが) いても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息するわけにはいかない。

道徳を離れることが出来なければ、一見道徳とは没交渉に見える浪漫主義な自然主義の解釈も一考して見る価値がある。

この二つの言葉は文学者の専有物ではなくって、貴方方と切り離し得べからざる道徳の形容詞としてすぐ応用が出来るというのが私の意見で、

何故そう応用が出来るかというわけと、かく応用された言葉の表現する道徳が日本の過去現在に興味ある陰影を投げているという事と、

それからその陰影がどういう具合に未来に放射されるであろうかという予想と

まずこれらが私の演題の主眼な点なのであります-

夏目漱石 『文芸と道徳』

Lectio

西へ行く日の、果(はて)は東か

-ある時サローンにはいったら派手な衣装を着た若い女が向うむきになって、洋琴 (ピアノ) を弾いていた。

そのそばに背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。その口が大変大きく見えた。

けれども二人は二人以外のことにはまるで頓着していない様子であった。

船に乗っていることさえ忘れているようであった-

夏目漱石 / 夢十夜 『第七夜』

Lectio

ちょうどこんな晩だったな

-「何が」と際どい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲るように答えた。

するとなんだか知ってるような気がしだしたけれども判然 (はっきり) とは分らない。

ただこんな晩であったように思える。

そうしてもう少し行けば分るように思える。

分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。

雨はさっきから降っている-

夏目漱石 / 夢十夜 『第三夜』

Lectio

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い

- 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。

唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越すことはあるまい。

あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶 (なお) 住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容 (くつろげ) て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る -

夏目漱石 『草枕』