Lectio

これから本郷の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、一緒に歩きませんか

「近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。

人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。

電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。

だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」

夏目漱石 『三四郎』

Lectio

その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰鬱なロンドンを眺めたのです。

- 何かに打ち当たるまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。

ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!

こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずることが出来るのでしょう -

夏目漱石 『私の個人主義』

Lectio

ただ波の底から焼火箸のような太陽が出る。

- それが高い帆柱の真上まで来てしばらく挂かっているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。

そうして、しまいには焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。そのたんびに蒼い波が遠くの向うで、蘇枋 (すおう) の色に沸き返る。

すると船は凄じい音をたててその跡を追っかけて行く。けれども決して追っつかない。

ある時自分は、船の男を捕 (つら) まえて聞いてみた。

「この船は西へ行くんですか」

船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、

「なぜ」と問い返した。

「落ちて行く日を追っかけるようだから」

船の男は呵々(からから)と笑った。そうして向うのほうへ行ってしまった-

夏目漱石 / 夢十夜 『第七夜』

Lectio

私の過去を訐 (あば) いても

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。

しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。

私は死ぬ前にたった一人で好いから、他 (ひと) を信用して死にたいと思っている。

あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

夏目漱石 『こころ』

Lectio

御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました

-菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹 (ようかん) が並んでいる。

余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、

どう見ても一個の美術品だ。

ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蠟石の雑種の様で、甚だ見て心持ちがいい。

のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる-

夏目漱石 『草枕』

以前、仕事の関係で美術品蒐集家の方を訪ねたときのことを思い出した。

その方は「手で触れてみなければわからないこともある」という考えをお持ちで、実際にコレクションの一部に触れさせてもらう機会を頂いた。

それ以来、美術館でツルリとした磁器などを眺めては「あぁ一度でいいから触れてみたい」なんて思ってしまう。

Lectio

鶯は鳴くかね

-「ええ毎日のように鳴きます。此処 (ここら) は夏も鳴きます」

「聞きたいな。ちっとも聞えないと猶 (なお) 聞きたい」

「生憎今日は-先刻の雨で何処へ逃げました」

折りから、竈 (へっつい) のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯 (さつ) と風を起して一尺あまり吹き出す-

夏目漱石 『草枕』

絵画を眺めてるみたいだなといつも思う。いや、音もたしかに聞こえてくる。

漱石の文章を読んでいると、なるほど漢字というのはこのように置くものかといつも感心してしまう。

Lectio

道徳に反対した文芸は枯れてしまわなければならない

-我々人間としてこの世に存在する以上どう藻掻 (もが) いても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息するわけにはいかない。

道徳を離れることが出来なければ、一見道徳とは没交渉に見える浪漫主義な自然主義の解釈も一考して見る価値がある。

この二つの言葉は文学者の専有物ではなくって、貴方方と切り離し得べからざる道徳の形容詞としてすぐ応用が出来るというのが私の意見で、

何故そう応用が出来るかというわけと、かく応用された言葉の表現する道徳が日本の過去現在に興味ある陰影を投げているという事と、

それからその陰影がどういう具合に未来に放射されるであろうかという予想と

まずこれらが私の演題の主眼な点なのであります-

夏目漱石 『文芸と道徳』

Lectio

西へ行く日の、果(はて)は東か

-ある時サローンにはいったら派手な衣装を着た若い女が向うむきになって、洋琴 (ピアノ) を弾いていた。

そのそばに背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。その口が大変大きく見えた。

けれども二人は二人以外のことにはまるで頓着していない様子であった。

船に乗っていることさえ忘れているようであった-

夏目漱石 / 夢十夜 『第七夜』

Lectio

ちょうどこんな晩だったな

-「何が」と際どい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲るように答えた。

するとなんだか知ってるような気がしだしたけれども判然 (はっきり) とは分らない。

ただこんな晩であったように思える。

そうしてもう少し行けば分るように思える。

分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。

雨はさっきから降っている-

夏目漱石 / 夢十夜 『第三夜』