Lectio

人間のふるさとはどこにもなく、世界のどこにでもあるかのようだ。

- 親のない子の私をいたわってくれた「ふるさと」はなつかしいが、

しかし無頼浮浪の私は旅のところどころにも「ふるさと」を感じる。

たとえばデンマアク、パリにも、フランスにも、ロンドンにも、ロオマにも、

アメリカのニュウ・ヨオクの郊外にも、ブラジルにも、

ふるさとに近い親しみとなつかしさがある -

川端康成 『私のふるさと』

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ところが、こんな夢を見るようでは

- 夢は私の感情である。

夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。私の感情である。

そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。

そう思って、私は寂しかった -

川端康成 『火に行く彼女』

夢のなかの自身の真っさらな感情を知って、かえって寂しい思いをした経験は僕にもある。

幾分ディテールや時系列が込み入ったストーリーにはなっていても、そこには飾りや見栄もなく、言い訳もなく、純粋な自分がいるから。

Lectio

私の顔なんか、今に毎日毎晩で珍らしくなくなるんですから

- 北を向いてほしいと思いながら私は祖父の顔を見つめていたし、相手が盲目だから自然私の方でその顔をしげしげ見ていることが多かったのだ。

それが人の顔を見る癖になったのだと、この記憶で分った。私の癖は自分の家にいた頃からあったのだ。

この癖は私の卑しい心の名残ではない。

そして、この癖を持つようになった私を、安心して自分で哀れんでやっていいのだ。

こう思うことは、私に躍り上りたい喜びだった。

娘のために自分を綺麗にして置きたい心一ぱいの時であるから、尚更である。

娘がまた言った。

「慣れてるんですけど、少し恥かしいわ。」-

川端康成 『日向』

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七夕の夜、天の河で会う彦星と織女星のために、かささぎたちがつばさを重ねて橋をつくる。

- 友だちが「かささぎだ。」と言って、廊下で見ていた時、私は座敷のなかに坐ったまま、

「六七羽から-そうだな、十羽ほども、よく庭へ来ているんだ。」と言ったが、立って行って友だちといっしょに見ようとはしなかった。

もう見なれて、目になじみの鳥だからだ。廊下へ出て鳥を見るよりも、その鳥の名を私は思っていた。

「かささぎ」という名を聞くと、その鳥がたちまち私の情感にしみこんで来たからだ。

「かささぎ」という名を知った今と、知らなかった前とでは、その鳥は私にはもはや同じ鳥ではなくなった-

川端康成 『かささぎ』

僕はまだこの世の中のどの鳥が「かささぎ」なのか知らないでいる。

これから「かささぎの渡せる橋」のことを思い浮かべるたびに、この川端康成の『かささぎ』を思い出すことになるかもしれないな なんて思ったり。

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しかし蝶は知っている。

小さく白い蝶のむれが、もみじの幹からすみれ花の近くに舞って来た。

もみじもやや赤く小さい若芽をひらこうとするところで、その蝶たちの舞の白はあざやかだった。

二株のすみれの葉と花も、もみじの幹の新しい青色のこけに、ほのかな影をうつしていた。

花ぐもりぎみの、やわらかい春の日であった-

川端 康成 『古都』