Lectio

「蒲生殿は、戦さ上手である」

と、秀吉はほめた。

「たとえばである。ここに故右大臣様 (信長) と蒲生殿が合戦するとする。その人数は右大臣様が五千、蒲生殿が一万、おのおのはいずれへ味方せられる」

「どうだ」

といったが、家康でさえくびをひねった。まして宇喜多秀家、毛利輝元程度の凡庸の男には解けそうにない。秀吉はみずから解答を出し、

「わしは故右大臣様に味方する」

といった。信長方は多勢に無勢で敗戦するであろう。「しかし」と秀吉はいう。

「なぜなら、蒲生方から兜首五つ討ち取ったとすると、かならずそのなかに氏郷殿の首が入っている」

「ところが織田方は五千のうち四千九百人まで討ち取られたとしても、故右大臣様はなお生き残った百人の中に入っているだろう。故右大臣様は生きてあるかぎり、かならず再起をはかる。ついには勝つ」

司馬遼太郎 『新史 太閤記』

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私の胸の中の悲しみの一つとして

- 私はほほえみながら弓をあちこちに動かし、

私の血のにじむ命をかなでる。

そしてだれも現さなかったものを現わす-

だが、いくらひいても、私はもう楽しくなれない。-

ヘルマン・ヘッセ 『ヴァイオリンひき』

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夜の魔法の世界に

「 一日のいとなみに疲れて、

私の切なる願いは

疲れた子どものように、

星月夜をしみじみと抱きしめる。」

ヘルマン・ヘッセ 『寝ようとして』

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私はロウソクを消した。

- 開いた窓から夜が流れこんで来て、

柔らかく私を抱き、私を友だちにし、兄弟にする。

私たちは共に同じ郷愁に病んでいる。

私たちはほのかな思いに満ちた夢を送り出し、

ささやきながら、私たちの父の家で暮した

昔を語り合う。-

ヘルマン・ヘッセ / 夜

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あらゆる点で、また万事につけて、人のまず享受するところのものは、自己自身である。

- 肉体的享楽でさえそのとおりであるが、まして精神的享楽はなおさらである。

この意味から英語で「楽しむ」ことを「自分を楽しむ」〔 to enjoy one’s self 〕と言うのはきわめて適切な表現だ。

たとえば he enjoys himself at Paris.「彼はパリで “自分” を楽しむ」と言い、「彼はパリを楽しむ」とは言わない -

ショーペンハウアー 『人のあり方について』

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ところが、こんな夢を見るようでは

- 夢は私の感情である。

夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。私の感情である。

そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。

そう思って、私は寂しかった -

川端康成 『火に行く彼女』

夢のなかの自身の真っさらな感情を知って、かえって寂しい思いをした経験は僕にもある。

幾分ディテールや時系列が込み入ったストーリーにはなっていても、そこには飾りや見栄もなく、言い訳もなく、純粋な自分がいるから。

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すると海はゆうゆうと見ながら、語らず、否、とほほえむ。どこからもあいさつも答えもやってこない。

- 夜、海が私をゆすり、

色あせた星の輝きが、

広い波の上にうつる時、

私は自分をすっかり、

一切の行いと愛とから引離し、

じっとたたずんで、ただひとり

ひとりぼっち海にゆられて僅かに呼吸する -

ヘルマン・ヘッセ / 『アジアの旅から 』 一、夜沖あいで -マレー群島-

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でも、ぼくにはわからない。この世の中って、せっかく本気で何かをはじめても結局、何もあとには残らないみたいだ。

「障害の飛越が危険になるのは、そのときのスピードしだいなんだ、ジョー。

ここじゃたいしたスピードは出ないし、障害だってそう性 (たち) の悪いほうじゃないからな。

厄介な問題が起こるのは、たいていスピードのせいなのさ、障害のせいじゃなくて」

アーネスト・ヘミングウェイ 『ぼくの父』