Lectio

なもないのばな

- 名前をつけるという行為は愛情と関心と敬意のあらわれであり、

また名前と実体とは切り離すことのむずかしい関係にあって、それが言語の本質のひとつをなしているのは確かですが、

目前の一輪の花の精妙な美しさに驚きと畏敬を感ずるとき、

それに名前をつけるという行為が、どこか自然に対する冒瀆 (ぼうとく) とも思えることが私にはあります -

谷川俊太郎 『ことばめぐり』

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家にいるのがいやだとて 大きな邸 (やしき) をあとにして 何度も表へ飛びだすが、さて表でも一向におもしろくないというので、舞い戻ってござる。

-こういったお歴々の若いときは、筋肉力と生殖力とにいっさいの尻拭いをさせることになる。

けれども後になると、残っているのは精神的能力だけである。こうなった場合に精神的能力に不足があったり、あるいはその発達が足りなくてその活動に必要な材料の蓄積が乏しかったりすれば、嘆きは大きい。

もはや意思だけが汲めども尽きぬ唯一の力となるから、今度は意思が情熱の興奮によって、たとえば例の不名誉極まる罪悪たる大がかりな運勝負によって、かき立てられる-

ショーペンハウアー 『人のあり方について』

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最後はラジオで聴き、私はひとり、小林へ拍手を送った。

- 劇場を出て、銀座で肉を買い、帰宅して、ウイスキーをのみながら焼いて食べた。

食後、ひと眠りしてからテレビをつけると阪神・巨人戦で、小林が投げている。

蒸し暑い甲子園球場で、力投をつづける小林投手。

去年の彼には、まだ見られなかった鰭 (ひれ) が、たしかに現在の彼についてきている -

池波正太郎 『炎天好日』

最後に何かに心から拍手をしたのは、いつだったかなと考えてみる。

いま僕たちに必要なのは、夢中になれる何かとか、心を託せる誰かとか、そういうものなんじゃないかなと思ったりした。

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小川のそばで、赤いつぼみの柳にならって

- 胸の奥で、一生のかぐわしいうら若い日の

思い出がよみがえって

花の目の中から私を明るく見つめる。

私は花をつみに行こうと思ったが、

今はすべての花を咲くにまかせて、

家に帰って行く、老いた人として -

ヘルマン・ヘッセ 『最初の花』

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私の顔なんか、今に毎日毎晩で珍らしくなくなるんですから

- 北を向いてほしいと思いながら私は祖父の顔を見つめていたし、相手が盲目だから自然私の方でその顔をしげしげ見ていることが多かったのだ。

それが人の顔を見る癖になったのだと、この記憶で分った。私の癖は自分の家にいた頃からあったのだ。

この癖は私の卑しい心の名残ではない。

そして、この癖を持つようになった私を、安心して自分で哀れんでやっていいのだ。

こう思うことは、私に躍り上りたい喜びだった。

娘のために自分を綺麗にして置きたい心一ぱいの時であるから、尚更である。

娘がまた言った。

「慣れてるんですけど、少し恥かしいわ。」-

川端康成 『日向』

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七夕の夜、天の河で会う彦星と織女星のために、かささぎたちがつばさを重ねて橋をつくる。

- 友だちが「かささぎだ。」と言って、廊下で見ていた時、私は座敷のなかに坐ったまま、

「六七羽から-そうだな、十羽ほども、よく庭へ来ているんだ。」と言ったが、立って行って友だちといっしょに見ようとはしなかった。

もう見なれて、目になじみの鳥だからだ。廊下へ出て鳥を見るよりも、その鳥の名を私は思っていた。

「かささぎ」という名を聞くと、その鳥がたちまち私の情感にしみこんで来たからだ。

「かささぎ」という名を知った今と、知らなかった前とでは、その鳥は私にはもはや同じ鳥ではなくなった-

川端康成 『かささぎ』

僕はまだこの世の中のどの鳥が「かささぎ」なのか知らないでいる。

これから「かささぎの渡せる橋」のことを思い浮かべるたびに、この川端康成の『かささぎ』を思い出すことになるかもしれないな なんて思ったり。

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ああ、うまかった。また、寿命がすこし延びた。

- 三社祭、草市、四万六千日、針供養、羽子板市、そして酉の市……と、浅草の伝統行事は、いま尚、絶えていないし、

この行事をおこなうことによって、浅草は浅草としての〔存在〕をまもりぬいている。

そして、現代の若者たちも、異国の人びとも、これをよろこび、たのしみ、浅草へあつまって来るのだ。

その季節季節によって、時刻をえらび、酒をのむ場所と散歩の段取りをうまくつけて浅草へ出かけると、私などは、つくづく気がやすまるおもいがする-

池波正太郎 『浅草の店々』

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愚図々々しているうちに、もう、春がやって来ました。

-雪が溶けると同時に、花が咲きはじめるなんて、まるで、北国の春と同じですね。

いながらにして故郷に疎開したような気持ちになれるのも、この大雪のおかげでした。

いま、上の女の子が、はだしにカッコをはいて雪溶けの道を、その母に連れられて銭湯に出かけました。

今日は、空襲が無いようです-

太宰治 『春』