
- 僕も歳をとるのは初めてのことなので、うまくできるかどうか、実を言うと自信はありません。
「幕引き」というのも、自分で決められることではないような気もします。
でもできるところまでは、自分のペースを確実に保ち続けたい、それが僕の考えていることのすべてです。-
村上春樹 / 雑文集
- 僕も歳をとるのは初めてのことなので、うまくできるかどうか、実を言うと自信はありません。
「幕引き」というのも、自分で決められることではないような気もします。
でもできるところまでは、自分のペースを確実に保ち続けたい、それが僕の考えていることのすべてです。-
村上春樹 / 雑文集
- 僕はライトバンから電動芝刈機と芝刈ばさみと ” くまで ” とごみ袋とアイスコーヒーを入れた魔法瓶とトランジスタ・ラジオを出して庭に運んだ。
太陽はどんどん中空に近づき、気温はどんどん上っていた。
僕が道具を運んでいるあいだ、彼女は玄関に靴を十足ばかり並べてぼろきれでほこりを払っていた。靴は全部女もので、小さなサイズと特大のサイズの二種類だった。
「仕事をしているあいだ音楽をかけてかまいませんか」と僕は訊ねてみた。
彼女はかがんだまま僕を見上げた。「いいともさ。あたしも音楽は好きだよ」 -
村上春樹 『午後の最後の芝生』
若い頃に芝刈りのアルバイトをした経験なんてないのだけれど、時折この小品を読み返しながら、学生時代に感じていたある種の心の震えみたいなものを味わっている。
「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている。」
たしかにそうだ。
” Bemitleide dich nie selbst. Selbstmitleid ist etwas für Versager. “
『ノルウェイの森』は好き過ぎて、外国で出版されたバージョンも時々読み返す。
ドイツ版はビリヤードのシーンが表紙になっているあたり「さすが、よくわかってるな」とか思いながら、独りでニヤニヤしている。
-ハンドルを握ってシューベルトの『冬の旅』を聞きながら青山通りで信号を待っているときに、ふと思ったものだった。
これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。
まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。
いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。
ハンドルを握っている僕の手の、いったいどこまでが本当の僕の手なんだろう-
村上春樹 『国境の南、太陽の西』
車って、たしかにそういうところあるよなと思う。
馬上・枕上・厠上なんて言葉もあるけど、意識の底に潜りたくてわざわざドライブに出掛けることがある。
なんだか脳内がチリチリして眠れない夜でも、乗り慣れた車を小一時間運転してみると、肩の力がスッと抜ける。
ハンドルと視線の先に集中はしているんだけど、何だか自分はそこにはいないような、不思議な感覚に包まれる。
その後の車内の充実感はBGMの選曲に大きく左右される。どんなライブハウスよりも、車内の音響で聴く(歌う)曲が、一番好きだ。
-でも僕はときどき何かの拍子にふと思うことがあるんだ。
君の家の居間でふたりで音楽を聴いているときが
僕の人生でいちばん幸せな時代じゃなかっただろうかってね-
村上春樹 『国境の南、太陽の西』
そういう”瞬間”って誰もが持っているんだろうか
自分のためにとっておきたい、温かくて、ちょっぴり切ないような
-僕が本当にノックアウトされる本というのは、
読み終わったときに、それを書いた作家が僕の大親友で、
いつでも好きなときにちょっと電話をかけて話せるような感じだといいのにな、
と思わせてくれるような本なんだ-
J.D.サリンジャー / キャッチャー・イン・ザ・ライ
村上春樹 訳
ベルナデットが街から森へと自転車で駆け抜ける姿は、何度観てもウットリしてしまう。
原題は”悪ガキども”って意味だと思うけれど、作品を知ると、邦題の “あこがれ” の方がしっくり来る。
無性にフランソワ・トリュフォーの古い映画が観たくなったのは、久しぶりに『海辺のカフカ』を読んだせいだ。
さっきまたパラパラと読んでいて、むかし高松を訪れた理由も思い出した。
-完全な紅茶のいれかたについては、わたし自身の処方をざっと考えただけでも、すくなくとも十一項目は譲れない点がある-
ジョージ・オーウェル『一杯のおいしい紅茶』
四谷三丁目辺りを散歩する。途中、そうだ妻に頼まれているアレを買って帰らねばと思い出す。
このあたりに評判の専門店があったはず。
モヒーニさん。ご自宅兼用?
紅茶を頂きながらボーッとしていたら、他のお客様と一緒においしい紅茶のいれかたをレクチャー頂いてしまいました。
長居してすみませんでした。
『海辺のカフカ』で星野青年が喫茶店でマスターに出会ったときの気分がチョットわかったかもしれない。