Lectio

花より雨に

枇杷 (びわ) の実は熟しきって地に落ちて腐った。

厠に行く縁先に南天の木がある。

その花はいかなる暗い雨の日にも雪のように白く咲いて、房のように下っている。

自分は幼少い時、この花の散りつくすまで雨は決して晴れないと語った乳母の詞 (ことば) を思い出した-

永井荷風 『花より雨に』

Lectio

空は日毎に青く澄んで

何処 (いずこ) を見ても若葉の緑は洪水のように漲り溢れて、

日の光に照されるその色の強さは、閉めた座敷の障子にまで反映するほどなので、

午後の縁先なぞに向かい合って話をする若い女の白い顔をば、色電気の中に舞う舞姫 (バレエ) のように染め出す。

どんより曇った日には緑の色は却って鮮やかに澄渡って、沈思につかれた人の神経には、軟い木の葉の緑の色からは一種云いがたい優しい音響が発するような心持をさせる事さえあった-

永井荷風 『花より雨に』

Lectio

記録 (ドキューマン)

-自分がまだ文字 (もんじ) を知らない以前、記憶という能力のまだ充分に発育しない以前、

自分の周囲の世界が、今では疾うに死んでしまった古老の口を通して、自分に囁き聞かした一切の事件や逸話は、

一度びそれ等の書籍や絵画を見るにつけて、突如として遠い遠い記憶の中に呼び返される-

永井荷風 / 蟲干(むしぼし)

Lectio

われの悲しむは過ぎ行く今年の春の為めではない、また来べき翌年の春の為め

-何処 (いずこ) を見ても若葉の緑は洪水のように漲り溢れて、

日の光に照されるその色の強さは、閉めた座敷の障子にまで反映するほどなので、

午後の縁先なぞに向い合って話をする若い女の白い顔をば、色電気の中に舞う舞姫 (バレエ) のように染め出す。

どんより曇った日には緑の色は却って鮮かに澄渡って、沈思につかれた人の神経には、

軟い木の葉の緑の色からは一種云いがたい優しい音響が発するような心持をさせる事さえあった-

永井荷風 『花より雨に』