
煌々とした明かりの下よりも、さりげなく、優しい明るさの方が本の世界に浸れる気がする。
部屋のなかの陰翳が物語や自分の頭のなかの曖昧さに似ているのかもしれない。
古い時代の本を読むことに長いこと没頭して、いつのまにか喉が渇いていることに気付く。
水をひと口ふくみ、ふと目をあげるとそこにはボンヤリとした明かりが点いている。安心して元の世界に戻る。
煌々とした明かりの下よりも、さりげなく、優しい明るさの方が本の世界に浸れる気がする。
部屋のなかの陰翳が物語や自分の頭のなかの曖昧さに似ているのかもしれない。
古い時代の本を読むことに長いこと没頭して、いつのまにか喉が渇いていることに気付く。
水をひと口ふくみ、ふと目をあげるとそこにはボンヤリとした明かりが点いている。安心して元の世界に戻る。
- アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。
町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。
春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあなを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。
丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆けぬけた。 -
レイチェル・カーソン / 沈黙の春 – 明日のための寓話
単に年齢的なものなのか、コロナ禍を経験した人類の一員としての危機意識がそうさせるのかはわからないけれど
我々がこれから失おうとしているものがどういうものなのか、ということについて時々考えるようになった。
とうの昔に失って、もはや取り戻すことができないものについても。
- これは、君達の図書室だよ。ここにある本は、誰でも、どれでも読んでいい。
『何年生だから、どの本』とか、そういう事は考えることはないし、いつでも、好きなときに、図書室に入ってかまわない。
借りたい本があったら、家に持って帰って読んでいい。そのかわり、読んだら、返しとけよ。
家にあるので、みんなに読ませたい本があったら持って来てくれるのも、先生は、うれしいよ。
とにかく、本をたくさん、読んでください -
黒柳徹子 『窓ぎわのトットちゃん』
子ども達と図書館へ行くと、このくらいの年頃だとコレみたいな固定観念から
つい「今読むべき本」みたいなものを薦めたくなってしまうけれど、
当の本人たちが欲してるものは全然そんなものじゃなくて、僕なんかが選ぶよりもよっぽど面白そうな本を自分で見つけてくる。
そういう意味でも「図書館」という子ども達にとっての世界の入口は、未来のこの国にもちゃんと在って欲しいなと心から思う。
オジサンと呼ばれる年齢になってはじめてわかったのは
この世界は無数のおじさん (その他、老若男女諸々含む) 達のおかげでなんとか成り立っているのだ、ということ。
将来、自分の子どもから「パパは何の仕事してるの」と聞かれたとして、
「お父さんは電車の運転手だよ。お前たちをあっちの街からこっちの街へ運ぶんだ」
なんて胸を張って言えるような仕事をしてる人達のことを、ちょっぴり羨ましく思った。
僕は一体、社会の何の役に立っているだろうか。
前日に街へ買い出しに出掛けた際、専門店こ冷凍クロワッサンが目にとまる。
そうだコレ前から食べてみたかったやつだよねと息子と目を合わせながら買い物籠にドサドサと入れる。
あら、たまには良いわねと笑顔を見せる妻。
なんとなくホクホクとした気分で気持ち早めに寝て、朝起きるとキッチンからクロワッサンの焼ける香ばしいにおいが届く。
スクランブルエッグと妻が買っておいてくれた旬のイチゴを添えて、皆でふっくらと焼けたクロワッサンにかぶりつく。
ここにおいしい紅茶かとびきりフレッシュなジュースでもあればもう完璧なのかも?いや、やっぱりこんな感じでいいんだろうななんて思ったりして。
子どもたちにとって、いつか帰ることができる場所を確保しておいてあげることは大切なことなんだろうな。
いや、それは子どもたちだけじゃなくて、僕たちオトナにとってもそうかもしれない。
パスタが無性に食べたくなる瞬間があって
「その衝動に応えるだけの自由がある」、
ということ1つとっても、オトナになる意味はあると思っている。
子どもの目で見ると、冬が近付くこの季節も
まだまだ生きものたちで溢れているらしい。
目に見えるもの、見えないもの、耳で聴こえるもの、聴こえないもの。
そういうあれやこれやで世界はできている。
体調が下り坂なので妻に「鍋焼きうどん」をつくってもらった。
ドラクエで言うと、僕にとってはベホイミに近いかなと思っている。
ホイミは散歩と珈琲とチョコレート。
ベホマは…やっぱり旅行だろうか?
回復魔法なんて使う必要のないくらいの方が幸せと感じる人もいるかもしれないけれど、
日常のちょっとしたところにホイミやベホイミ沢山ある人生の方がなんだか楽しいような気はしている。
何かを想像してそれを形にする、という悦びは
ヒトにしかないモノなのかもしれない。
小さな子どもを体験に連れていって、
レゴをガシャガシャする姿を見ながら
なんだか羨ましいな、なんて思ったりして。