Lectio

日本の春は太平洋から来る。

- 庭の日かげはまだ霜柱に閉じられて、

隣の栗の樹の梢 (こずえ) には灰色の寒い風が揺れているのに

南の沖のかなたからはもう桃色の雲がこっそり頭を出してのぞいているのであった -

寺田寅彦 『春六題』

GastronomieLectio

そうして、珈琲の効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ている。

- 始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい「おくすり」であったらしい。それを飲みやすくするために医者はこれに少量の珈琲を配剤することを忘れなかった。

粉にした珈琲を晒木綿 (さらしもめん) の小嚢にほんのひと抓みちょっぴり入れたのを熱い牛乳の中に浸して、漢方の風邪薬のように振出し絞り出すのである。

とにかくこの生れて始めて味わったコーヒーの香味はすっかり田舎育ちの少年の私を心酔させてしまった。

すべてのエキゾティックなものに憧憬をもっていた子供心に、この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡ってきた一脈の薫風のように感ぜられた-

寺田寅彦 『珈琲哲学序説』

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古い小さいベコニアはそれでも捨てるのは惜しかった。

- 自分は時々頭をねじ向けて洗面台の上に眼をやって、花も葉も日々に色の褪せていく哀れな鉢を見ないではいられなかった。

(中略)

三週間あまり入院している間に自分の周囲にも内部にもいろいろの出来事が起った。

いろいろの書物を読んでいろいろの事も考えた。いろいろの人が来ていろいろの光や影を自分の心の奥に投げ入れた。

しかしそれについては別に何事も書き残しておくまいと思う。

今こうしてただ病室を賑わしてくれた花の事だけを書いてみると入院中の自分の生活のあらゆるものがこれで尽されたような気がする。

人が見たらなんでもないこの貧しい記録も自分にとってはあらゆる忘れがたい貴重な経験の総目次になるように思われる-

寺田寅彦 『病室の花』