Lectio

私の過去を訐 (あば) いても

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。

しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。

私は死ぬ前にたった一人で好いから、他 (ひと) を信用して死にたいと思っている。

あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

夏目漱石 『こころ』

Lectio

西へ行く日の、果(はて)は東か

-ある時サローンにはいったら派手な衣装を着た若い女が向うむきになって、洋琴 (ピアノ) を弾いていた。

そのそばに背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。その口が大変大きく見えた。

けれども二人は二人以外のことにはまるで頓着していない様子であった。

船に乗っていることさえ忘れているようであった-

夏目漱石 / 夢十夜 『第七夜』

Lectio

ちょうどこんな晩だったな

-「何が」と際どい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲るように答えた。

するとなんだか知ってるような気がしだしたけれども判然 (はっきり) とは分らない。

ただこんな晩であったように思える。

そうしてもう少し行けば分るように思える。

分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。

雨はさっきから降っている-

夏目漱石 / 夢十夜 『第三夜』

Lectio

百年待っていてください

-いつ逢いに来るかねと聞いた。

「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう、それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。-赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、-あなた、待っていられますか」-

夏目漱石 『夢十夜』

Lectio

お嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。

-私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。

私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。

本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。

私は他 (ひと) を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから-

夏目漱石 『こころ』