
- あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、
土地の匂いも格別です、父や母の記憶も濃 (こまや) かに漂っています。
一年のうちで、七、八の二月 (ふたつき) をその中に包まれて、穴に入った蛇のように凝としているのは、
私に取って何よりも温かい好い心持だったのです -
夏目漱石 『こころ』
- あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、
土地の匂いも格別です、父や母の記憶も濃 (こまや) かに漂っています。
一年のうちで、七、八の二月 (ふたつき) をその中に包まれて、穴に入った蛇のように凝としているのは、
私に取って何よりも温かい好い心持だったのです -
夏目漱石 『こころ』
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。
しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。
私は死ぬ前にたった一人で好いから、他 (ひと) を信用して死にたいと思っている。
あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
夏目漱石 『こころ』
-ある時サローンにはいったら派手な衣装を着た若い女が向うむきになって、洋琴 (ピアノ) を弾いていた。
そのそばに背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。その口が大変大きく見えた。
けれども二人は二人以外のことにはまるで頓着していない様子であった。
船に乗っていることさえ忘れているようであった-
夏目漱石 / 夢十夜 『第七夜』
-「何が」と際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲るように答えた。
するとなんだか知ってるような気がしだしたけれども判然 (はっきり) とは分らない。
ただこんな晩であったように思える。
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
雨はさっきから降っている-
夏目漱石 / 夢十夜 『第三夜』
-いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう、それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。-赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、-あなた、待っていられますか」-
夏目漱石 『夢十夜』
-私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。
自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味あわなくてはならない-
夏目漱石 『こころ』
-私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。
私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。
本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。
私は他 (ひと) を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから-
夏目漱石 『こころ』